「TGV(フランス鉄道)の中で、僕たちは親しくなった。
彼女は画学生だった。互いに名を告げることなく、会話が弾み、やがて彼女は降りていった。去り際に僕の手首に香水をひと吹きし、ジタン(Gitanes)煙草を5本渡して。車中から流れゆく景色を眺めながら、ジタンを吸うたびに、そして彼女の香りが漂うあいだ中、僕は彼女のことを考えていた・・・。」
十代の半ば、何かで読んだエッセイの一文は、長く私の記憶にとどまっていた。いつか自分も、この物語のような心に残る女性になれるだろうか。
その後、粋な出会いはなかったけれど、ありふれたロマンスの中で、私たちは別れしな互いの香りをつけてハンカチを交換した。
時には彼の手首だけでなく、こっそりとシャツの襟につけたこともあった。ここまで来るとまるでマーキングだねと、あとで二人で笑った。
顔も思い出せないのに、いつまでも香りが記憶に残る。レトロな恋のやり取りは、このエピソードなしではずいぶんと色あせたものだったに違いない。
日本から香料を直接買うために、マルセイユの知人(この彼ではない)を訪ねていくことにした。
TGVにのってマルセイユへの旅は、はるか昔の温かくくすぐったい思い出を運んでくれたのである。