Jean PatouのJOY(ジョイ)は、三島由紀夫の「美徳のよろめき」の中で、ヒロイン節子がつけていた香水である。
節子が初めてデエトに行くときに、念入りな身支度の中にその香水は登場する。
JOY(ジョイ)は、ローズジャスミンの贅沢な材料を使い、ゴージャスなイメージ作りで、香水界のロールスロイスと呼ばれた。
確かに、ジョイは節子のような優雅な上流夫人にふさわしい香水ではある。
夏目漱石の「三四郎」1908年の作で、ヒロイン美彌子はヘリオトロープという香水をつけている。
まだ香水は、男女の心のあやを、水彩画のように淡く表現しているにすぎない。
(もっとも、その時代の感覚では充分煽情的なのかもしれないが。)
それから50年後の1957年、この小説の中では香水、ジョイをもっと官能的に登場させている。
それは情事の象徴のように、出会いと別れのシーンに2度あらわれる。
三島由紀夫がこの小説を書いた当時の日本を考えると、香水は、まだ特別な贅沢品であった。
今のように簡単に購入できるようなものではなく、手に入る種類も多くなかった。
しかし、節子にシャネルの香水はふさわしくない。違う種類の女だからだ。
ウィットを持たない、エレガントなヒロイン「節子」を際立たせるのに、ジャンパトーのジョイを選んだのはごく当然である。
「現代においては、何の野心を持たぬということだけで、すでに優雅と呼んでもよかろうから、節子は優雅であった。女にとって優雅であることは、立派に美の代用を成すものである。なぜなら男が憧れるのは、裏長屋の美女よりも、それほど美しくなくても、優雅な女のほうであるから」(美徳のよろめきp6)
三島由紀夫の小説は、「一度は読むけれども、二度は開(ひら)けない」といつも思う。
こんなに美しい表現が、宝石のように散りばめられた文章に、本当は虜にならずにはいられない。
しかしあまりにも耽美的で退廃に満ち、精神の健全な部分が浸食されていくような気がするからだ。
麗しい匂いの、毒のある花。