小説の中の香りの描写は多いとは言えないが、非常に効果的である。
16世紀、シェイクスピアの著作の中には、植物(ハーブ)の香りの描写が多用されている。
「真夏の夜の夢」の第二幕には、タイムやすみれ、甘い香りのすいかずら、香りのよいバラなどを登場させた。
いかにも妖精の女王の眠る場所にふさわしいイメージだ。
「I know a bank where the wild thyme blows,
Where oxlips and the nodding violet grows,
Quite over-canopied with luscious woodbine,
With sweet musk-roses, and with eglantine;
There sleeps Titania sometime of the night
(A MIDSUMMER NIGHT'S DREAM (Act 2, Scene 1))
また、20世紀の同じく英文学のゴールズワージーの「リンゴの樹」もそうだ。
美しい情景を、香りがいっそう活き活きとさせている。
主人公アシャーストが田舎娘と恋に落ちていく様子や、ある夜の逢瀬を詩的につづっている。
「うす紅のつぼみの中に、唯一つ星のように真白いリンゴの花が咲き匂っていた」(林檎の樹,p45)
リンゴの匂いが、ヒロイン「ミーガン」の純潔な愛らしさを際立たせる。
これが、「そのとき花の香りがした」では想像力が膨らまない。
文章に香りの表現、しかも具体名を入れることで、二次元の紙媒体が三次元のホログラフになるかのようである。
こんなロマンチックな花の香りだけでなく、池波文学では「うまそうな匂いのする」料理の場面がしばしば描かれている。
「剣客商売」などを読んでいると、思わず「茄子の一夜漬け」を食べたくなり、夜中、冷蔵庫を覗いたりする羽目になる。
それは、直接ストーリーとは関係ないかもしれないが、小説の大きな魅力となっている。
香りの言葉は、巧みな表現によって、実物がなくても官能を刺激する。
小説の中の、エッセンスだ。