香り全般はもとより、香水が登場する小説は、あまり多くない。
具体的な香水名まで出している小説はさらに少ない。
17-18世紀の童話にたまに出てくる場合、「香水」という一般名であるのは、まだブランド香水が確立されていなかったからだろう。
香水は、一部の王侯貴族おかかえの調香師によって作られ、大衆向けに売り出されてはいなかったからだ。
「レベッカ」(デュ・モーリア1938年)は、大邸宅に嫁す若い後妻が、死んだ先妻の影に怯えるサスペンス・ロマンだ。
後妻は、庭に出るときに何気なく来た雨合羽の中に、前の女主人レベッカが忘れたハンカチを見つける。
白いハンカチについた赤い口紅の跡と、香水の強い残り香。
このシーンも香水の名前こそ出てこないが、館を覆う女の不吉な支配を強調している。
おそらく、20世紀に入ってからの外国文学には、固有名詞の書かれたものもあるに違いない。(今すぐは思い当たらないが)
最近では、ヒロインのキャラクター作りに香水が一役買っていたりする映画もあるから。
以前も触れたが、日本文学では、いくつか有名な香水が出てくる。
古くは三四郎(夏目漱石)の中の香水「ヘリオトロープ」。
これは、日本に入ってきた初めての香水とも言われている。
上梓された1908年という時代背景を考えると、選択肢はあまりなかったであろう。
それでも、美禰子が三四郎の前で口ずさんだ象徴的な言葉、「ストレイシープ、ストレイシープ(迷い子・迷い羊)」と、香水名「ヘリオトロープ」は、韻(いん)を踏んでいなくもない。
だから、この香水でなければならなかったのかもしれない。
そして、三島由紀夫の「美徳のよろめき」に出てくる「JOY(よろこび)」。
小説の内容、主人公にふさわしい香水名を、数少ない中からも吟味して選んだことは間違いない。
この時代の男性で、三島が香水に対する見識をどのくらい持っていたのか興味のあるところだ。
筒井康隆の「パプリカ」(1991)では、患者の見る夢の中に介入して、精神治療をする主人公「千葉敦子」が、ディオールのポワゾン(毒・天然毒ではなく、化学毒)をつけている。
この香水は、名前のセンセーショナルさもあって当時一世を風靡した。
「パプリカ」は私の愛読書ではあったが、この香水の選択には正直違和感を持った。
しかし、マニアしかしらない香水を登場させても、読者に訴えることは難しい。
そのあたりが、花の匂いを引き合いに出すのとは違うところだ。
(本屋で立ち読みをした)「嫉妬の香り」(辻仁成)の早希は、ゲランの「ジャルダン・バガテール」をつけていた。
チュベローズと白い花の、甘く、日本ではくどい香りだ。
この手の香りは、そうとう良い材料を使わなくては、化繊のスリップを着た安っぽい女になってしまう。(スリップって今どき着ないけど)
ジャルダンバガテール(意味:バガテール公園)は日本で販売されていなかったにもかかわらず、この小説のヒットを機に発売されたという。
ほとんど知られてない香りでも、ヒロインに感情移入すれば興味が湧いて、どんな香りなのかつけてみたくなるということもある。
逆のケースだ。
さらにいえば、名香は、それ自体がレジェンド、伝説だったりする。