パルファン サトリの香り紀行

調香師が写真でつづる photo essay

裏千家御家元 初釜 2010

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昨日に引き続き今日も裏千家お家元の初釜に伺う。京都の裏千家は昨日で終わり、東京でのお初釜は今日から始まる。

東京は市ヶ谷加賀町に道場がある。 濃茶席に入る前、寄り付きでお道具と茶会記を拝見した。(会記は道具の組合わせを書き留めた記録のこと)

お軸をはじめ、茶碗など伝来の名物が並ぶ。秀吉公から拝領の茶入れや、陣羽織の裂(きれ)から仕立てられた仕覆など、「歴史小説」などでなく目の前にある事実は、やはりあるべき場所にあったから今に伝わったことを告げている。

16代御家元のお手前を拝見した後、庭を眺める。いつ見ても素敵なお庭。姿の良い立派な松である。業躰(ぎょうてい)の方に写真をとっていただいた。

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宗匠(15代鵬雲斎)も毎年のことながら当代と並んでご挨拶に出てこられたが、大変ご健勝でいらしておめでたい限りだ。私の父はとうに他界したが、「大正会」というところでまだ若いころの大宗匠とご一緒だった。三橋達也さんが中心になり、森繁さんや淡島千景さんなど、大正生まれの人達が銀座で集まった会である。当時の会員であった林家三平さんも、三船敏郎さんも、つい先日は森繫久弥さんも亡くなられ、大正は遠くなっている。(私は昭和の生まれだ。念のため)  

お茶のことをまともに語るには、深遠で広範な教養と知識が必要で、半ちくなことでは恥をかく。むろん日々の実践の上に理解が至らなければ。いわんや(まして)私をや、(ごときに)わかったようなことは申し上げられない。

母は女学校から茶道を習っていたが、結婚し子供たちに手がかからなくなってからこの40年、毎朝お薄を二服たてる。(もともと母は子供にはあまり手をかけなかった)相手がいなくても、「お手前頂戴いたします」「お続けいかがですか」などと一人で会話して自ら飲んでいる。

弟子は取らないが準教(茶名の上)である。母は昔から、歳時記、故事、お道具のことなど熱心に語ってくれたものの、こちらはふんふんと右から左で、うわの空。記憶に引っかかる言葉だけが頭に残っている。「さとりも読みなさい」と、実家の書庫にはお茶 の本はいろいろあるが、読んだ端から忘れていくような気がする。 今頃になって、脳の上澄みに浮かぶのを「ねえねえ、これってなんだっけ?」と聞いているありさまである。

何の道でもそうなのだろうが、ちょっと知っているつもりで、全然知らないと同じくらい奥が深い。もっともっとまじめに勉強しておけばよかったなどと最近になって思う。(何に関してもそうだ)

「稽古とは一より習ひ十を知り十よりかへるもとのその一 」(利休道歌)
(いや、その歌はこの場合適切でないって。十どころか一で止まってるから)

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点心(お食事)。初釜は茶懐石のように堅苦しくなく、皆様なごやかにされていた。

懇切丁寧な長い茶会記の中から、下に一部書かせていただいた。

 

花  曙椿 鶯神楽

花入 伝来 利休端ノ坊

茶入 千家名物 瀬戸藤四朗 四耳肩衝
    豊公より利休居士拝領 年賀の砌 銘 七草
    
袋   豊公より拝領 御陣羽織の裂

茶杓 鵬雲斎大宗匠 庚虎年初削 銘 繍
    
茶碗 玄玄斎好 三都嶋台 慶入造 都 吾妻 浪花

お茶 坐忘斎家元好 遊亀の昔

 

お茶をされている方にはいまさらとは思うが、不案内な方のために簡単な説明を。

豊公は秀吉公のこと、鵬雲斎は前の15代、坐忘斎は今の16代お家元。茶杓は毎年初削りをされたものが飾られる。(銘の文字が変換できないが口へん)
三都は京、大阪、江戸のことで、大中小の三つの茶椀さす。嶋台というのは、中を金銀に塗ったお茶碗。今年で天皇在位20年にあらせられるので、おめでたい鶴亀の銘のお茶を選ばれたそうである。(元年は何月からであったっけと考えてしまう。)濃茶は遊亀、薄茶は群鶴、こんなところにも組合せの面白さが。

 

 

 

 

 

 

 

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