百日紅(サルスベリ)の花が咲きはじめてから三か月ほどたつ。
いつのまにかもう9月も後半になり、花もそろそろ終わりに近づいている。
サルスベリは遠目で見ることが多いせいか、花の印象は塊(かたまり)である。
花びらが何枚なのか、どこからどこまでが一つの花なのか判然としない。
とくにこのフリフリが曲者で、ひとつのフリルが一輪なのかと思ってよく見れば、これは6枚の花びらが合わさって中央に長い蕊があることがわかる。
長く咲き続けるからどことなく作り物めいて、昔は香りの印象を持たなかったのだが、実際に嗅いでみると甘い香りがする。
しかし、過去のメモをみると咲きはじめの頃はあまり匂いがなかった。
盛夏、サルスベリの赤い花は確かに粉っぽく、そしてオーランチオール系の香りがしたのだが、9月には青くさい香りへと変わっていた。
多くの花がそうであるように、同じ品種の白花と赤花でも匂いは違う。
朝と夕方、季節でも変化するようだし、個体差もある。
花は何日にも分けて、何回も確かめなければならない。
香りはいつも、思い込みとの戦いである。
特に、花の香りときたら、見た目で左右されてしまうから。
きれいな花から、思いがけない凶暴な匂いがすることも、
地味でつまらなそうに見える花が、素晴らしい香りをしていることも。
それでも、花の暦は本当のカレンダーと同じように、次々と来ては去っていく。
追いかけるのは大変だ。
うっかりしていると、その年はついに会えずじまいのこともある。
香りについて、本を読んで語るのはたやすい。
言葉さえ巧みなら評論はできる。
一体、自分は何を求めているのかをよく考えなくてはならない。
すべての学問において基礎がなければ何も生まれないし、
先人の知恵を学ぶことは大切である。
また感性は知覚の範囲で起こることだから、
知を広げることは感覚を磨くことにつながる。
だが知識を抱いたまま満足せず、自らの感じ方を観(み)ること。
そのうえで、同時に検証し自分で確かめる。
それらをフィードバックして、一に戻る、その繰り返し。
どれもみな「作る」ための大切なこやしなのだろう。