パルファン サトリの香り紀行

調香師大沢さとりが写真でつづる photo essay

母の華道① Ikebana international 昭和

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この古い写真は昭和36年ころだと思われる。
水盤には母の活けたアイリスの花。(ペコちゃんのような顔の私)

昔の女学校は、お茶お花、裁縫は授業の正科だったから、母はごく普通にいけばなはできたし、
嫁ぎ先の姑(しうとめ)が華道の先生がったから、さらにお花を習得するのはしごく当然のことであったろう。

祖母なきあと、自由になった母は相当な有閑マダムになっていくのである。
いろんな社交に精を出していたが、中でも熱心だったのがお花の会である。

 

Ikebana International(イケバナインターナショナル、通称アイアイ)と言うのは池坊、草月、小原流、古流など、多くの華道流派が集まって1956年にできた国際組織である。

少なくとも私が8歳のときには、母はそこにそうとう入れ込んでいたという記憶がある。
よくバザーの手芸品などを作っているのを見ていたし、集まりにもしょっちゅう出かけていたから。

 


母は華道古流の看板を持っているにもかかわらず、教えるというより、場所を提供し人を集めるのが好きだった。

自分ではあまり教えず、その「アイアイ」で英語の達者なお花の先生を何人もスカウトして、自分の家で花の教室を開いていたのだった。

 

 

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また生徒の方はと言えば、赤坂の家の周りには大使館や外国人用マンションが多く、日本に来たばかりの海外の駐在妻と思しき人が、公園で子供を連れて寂しそうにしていると、母はたいして英語を話せないのにもかかわらず、気軽に声をかけてはIKEBANAの教室に誘って連れてくる。

なので生徒さんは常に入れ替わり、ひとりふたり、本国に帰ってもいつもまた新しい人が来ていた。
お花の先生によく、「あら、あなたまたどこで拾って来たの?」などと軽口をたたかれたものだ。

 

そのため、毎年12月になると世界中からクリスマスカードがやってくる。
それは年々増え、リビングのカーテンにピンでとめられ、我が家のクリスマスの風物詩となった。

 

根っから社交的なのだ。

父は人と社交するのが仕事のようなものであったが本来ははにかみやであって、よく母に「この仕事はお前の方が向いている」などとひやかしていたが、私はどちらかというと父に似ているように思う。

 

 

最初にいらした井出先生は勅使河原蒼風(てしがわらそうふう)先生の直弟子である。
「花と花は語り合うように活けるのよ」と言うのが口癖であった。

先生が急逝され、その後いらしたのは勅使河原霞(かすみ)先生の愛弟子で、私はその先生に習ったのである。

 

つづく        

 

 

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