パルファン サトリの香り紀行

調香師大沢さとりが写真でつづる photo essay

母の華道② Ikebana international  昭和

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前回の「母の華道①」からずいぶん経ってしまった。


つづきであるが、母はこうしたわけでいろいろと社交に忙しく、私は家にとりのこされたこととも多い。

そっと出ていく母の背中を廊下で見つけ、追いかけ、玄関をはさんで親子で扉を押したり引いたり。

ついに根負けして手を離し、わーっと泣き出すと、サンダルを駆って走っていく母の足音が・・。
ようやく外に出てみると母の背中が遠ざかり小さくなっていく。サザエさんのシーンのようである。

泣いていると留守中は近所のおばさんが家に呼んで面倒を見てくれた。
子供一人を残して出かけられる、のどかな時代であった。

 

そんな母も、実家から父(私の祖父)が来たときに、私が一人で家にいるのを見つけられてあとで叱られたそうだ。

上は私が4歳くらいの時の写真。
母は30代後半で、今だったらまだ遊びたい盛りの歳だ。

 

 

その後しばらくして母はイケバナインターナショナルに入り、主として外国からの駐在員の奥様を対象とした生け花教室を開いた。

 

 

 

うちで開いていた生け花教室にたくさん来た外国の生徒さんは子供連れも多い。

ドイツから来たアーミング夫人には、小学生の私と年まわりも近いクリスチャンという男の子がいて、教室に連れてきて一緒に遊んだのを覚えている。

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この写真は当時のクリスチャン、私は左の方にいるベリーショートの子供だ。
真ん中の金髪の女の子はまた別の生徒さんの子供。
三人でよく遊んだ。

前にも書いたかもしれないが、私は本当は長い髪にしたかったのだが、「いなかくさい」という母のひとことでこうなった。本当は子供の髪を洗ったり結ったりが面倒だったに違いない。
(銀座に大関早苗美容室というのがあって、当時は髪をレザーでカットするのが新しかったようだが、痛かった。)

しばらくして一家はドイツへ戻り、私も2-3回はクリスチャンに手紙を送ったが、ウィーンに引っ越してからはまったく忘れていた。

 

その後も母はずっと、アーミング夫人と毎年のクリスマスカードのやり取りだけはしていたようだ。

 

そして何十年ぶりかに、大人になったクリスチャンが「オーケストラの指揮を取っている」CDが送られてきたと母はいう。そのCDこれなのだが・・・。

 

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しかし、クリスチャンは私より少し下くらいの歳だったから、この人はちょっと若すぎるみたい。
母の勘違いで、別人だと思う。

私の友達のクリスチャンはもういいおじさんのはず。素敵に年を取っているといいけど。

アーミング夫人はもうなくなられたようで、数年前からクリスマスカードが来なくなってしまったと母は云う。
記憶の中でもきれいな人だったなあ。

 

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これを書いていてふと思い出したが、私はこのアーミング夫人、つまりクリスチャンのお母さんに家に来てもらい、英語とピアノの家庭教師をしてもらっていた。

黄色のバイエルくらいまでだったと思う。
私があまりにもピアノの練習をしていなくて、レッスンの途中で怒って帰ってしまったこともあった。
(私はドリルとか嫌いだったのだ)

 

小学校の夏の臨海(りんかい)学校から帰ってきたばかりのピアノレッスンの時、真っ黒に陽に焼けた私の顔を見て黒い「すす」が付いていると思ったのか、「OH・・・」と言ってひとさし指でほっぺたをなぞられたのが思い出に残っている。

 

あまり母の華道とは関係なくなってしまったが・・・。

 

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