「土を喰う日々」(水上勉)、発行日の1982年と言えば、もう30年も前のこと。
水上氏が丹精込めて育てた野菜を丁寧かつシンプルなひと皿にして出すという、12か月の旬をつづった料理エッセイである。
20代、母の本棚からこの本を借りて読みかなり影響された。
それに倣って、サトイモは皮を包丁でむかずにタワシでゴシゴシこすり落とすとかしてみたものである。
特にほうれんそうの根っこを捨てずにお浸しの上に載せたときの、葉の緑と根の赤のコントラストを語るシーンが鮮烈であった。
その後忙しさにまぎれ、きちんと料理することもこの本のこともしばらく忘れていたのだが、引越しの時に荷物の中に見つけてからこのほうれんそうの話を思い出し、手にとって読み返したのだった。
「土を喰う」
それは京都の禅寺で精進料理を作っていた筆者の生い立ちなしにはなかった言葉であろう。
質実な暮らしの中、限られた食材でいかに無駄なく日々のお惣菜を工夫するか。
ひとことで言えるほど生易しいものではないだろう。
しかしこの飽食の時代の中で、心づくしも風味も抜けたものを食べていると、本当のうまいものには出会えないのではないかと思う・・・。
本を読んでいるうちに味と香りが舌に蘇って来る気がして、土のついた野菜を無性に食べたくなってしまう。
以前も紹介したことのある広尾の「山藤」では、そんな土のエネルギーを感じさせる料理を出してくれる。
家庭ではできないけど、家庭的なお惣菜・・・素材の味をとことん引き出すようなお皿の数々である。
有機野菜でなければこんな食べ方はできまい。
というわけで、店長のNさんがたまたまアトリエに寄られた時に、
「山藤さんのお料理をいただいていたときにこの本を思い出しました」
と「土を喰う日々」の本を見せたところ、はっと嬉しそうに顔をほころばせ、
「この本はうちの料理長のバイブルです」
という。
へえ、口で語らなくてもやっぱり料理が語っているんだなあ・・・。
あれ?なんか似たような経験が・・・と思ったら、フォトグラファーの高崎さんとの出会いもこんな感じだったのを思い出した。
食も写真も、言葉で語らなくても、作り手その人の趣味嗜好が表われてくる。
いや、おしなべて作品と言うのは、その作者の「人となり」が自然にじみ出てくるものなのだろう。