江戸、明治、大正と、つづいて書くと言いながら間があいてしまったが、そして引っ越しの際、茶箱(ちゃばこ)の中から古い風呂敷に包まれた書類一式が出て来たところへ戻る。
とりあえず華道関係の本だけを選んで時代別に並べてみたところ、前回の天保14年(1843年)の華道教本からはだいぶ時期があいているが、次の2冊にわたる古書が明治32年(1899年)のものである。
これは宗祖母(近藤松)が師から秘伝を許されたときに拝領したものらしい。
明治32年、一泉は、先生の一文字をとってつけられた華道の名前と思われる。
自分がどうして植物が好きなのか、そのルーツを見た思いである。
正風遠州(?)流水揚傳書と読める。
茶道遠州流は有名であるが、華道にも遠州流があるそうなので、そうかもしれない。
花を長持ちさせるために水揚げを行うが、花ごとに手当が異なるため、この教本にはそれぞれに適した方法が書かれている。
「百合し事」「大手丸(おおてまり?)し事」など、お湯に入れてちょっと切り口をどうとか、これらひとつづつが秘伝だったのであろう。
今であれば、ネットで検索してすぐにノウハウがわかるところだが、この時代コピーもワープロもないわけだから、一冊づつ手で写していくのである。如何に情報に価値があったかである。
また、カルチャーで1時間いくらで支払うのとは違い、師について「道」を学ぶわけで、ますます「伝授」の重さが違うというものだ。
今はなんでも簡単に手に入るし、技術も道具も工夫なしで知ることができるので、便利と言えば便利だが、一方、上辺だけですべてわかったような気になるという弊害も多い。
父の母方の実家は近藤家といった。
宗祖母は松前(今の小樽)の人である。御典医の家は数代にわたって女しか生まれず、松前藩の家中から婿(むこ)取りをして家を継いでいたそうである。
家を継ぐことができる嫡男(長男)以外の男子はスペアであるから、二男、三男は家長にはなれない。
居続けても「冷や飯食い」「居候(いそうろう)」と呼ばれる身分のまま一生を終える。
そのため次男以下は、家付き役付きの娘がいないかと、よい婿入り先を必死に探すのである。しかし婿入りしても男子を産ませられないと、婿は実家に帰されてしまう。
宗祖母の家もまた、婿を返しては別の婿をとったそうで、厳しいものであった。それは通常の嫁取りと同じく、人より家が大事にされた。家の重要性は今では考えられないほど封建的である。
恋愛、結婚、一生。今の世の中は自由で素晴らしい。
一方、初めから自由だから何が幸せなのかわかりにくい時代であるのかもしれない。
次回は大正時代の華道「お許し状」 の予定