パルファン サトリの香り紀行

調香師大沢さとりが写真でつづる photo essay

東京アメリカンクラブ TOKYO AMERICAN CLUB

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初めて東京アメリカンクラブへ行ったのは小学生の夏休みだ。
昭和40年代の、古い建物。

ミセス・クラタという母の友達に、たびたびプールに連れて行ってもらったものである。
一緒に歩いているとみんなが振り返るような、とてもきれいな人だった。
ハーフのクラタさんは「フランス人形のようだった」と今でも母は言う。

一緒に箱根や伊豆に旅行に行ったり、まだお子さんがないということもあって、かわいがってもらったのを覚えている。

ミスター・クラタはアメリカンクラブからほど近い大きなホテルの総支配人をしていたが、数年後夫妻はアメリカに帰ってしまった。
長年、母との会話の中で倉田さんだと思いこんでいたが、今思うと外国名の Klataさんとかだったのかもしれない。


なにしろ昔のことなので、光景の断片しか思い出せないが、施設には屋外プールを見下ろすテラスがあり、そこでコーラを飲んだ。変な味だった。赤い提灯が並んでいたような気がする。夜には花火が上がった。

 

東京アメリカンクラブは1924年に設立され、のちに麻布台に移転。アメリカから日本に来た駐在中の家族が自国にいるように楽しめるような場所として始まったようだ。レストランのほかボーリング場や映画館、図書館などが用意されている。

 

1975年(昭和50年)にクラブの建物が新しくなり、会員枠があったので私たち家族も正式にメンバーになった。このときの屋外プールは大小二つ、夏休みに友達とよく泳ぎに行ったものである。


日本語会話の教室や華道、俳画囲碁など、日本文化を学んだり交流するクラブも数多くあり、ディナーショーやパーティといったイベントや企画が盛り沢山。

今は外資のホテルや商業施設があちこちにあるから珍しくもないが、まだ洗練された場所がなかった当時、クラブのゲートを入るとそこには繁栄のアメリカがあった。

 

年に一度の仮装パーティでは、全館を使ってバカラやルーレット、カードゲームを楽しむ。

カジノといってもお金のやり取りはなく、チップで景品がもらえるようなお遊びのものだけれど、ドレスコードは仮装衣装かタキシード、ロングドレスでわくわくした。

アラビアン・ナイト」では、白い布をかぶり黒いイカール(環)を頭に乗せ仮装したアメリカ人男性もたくさんいて、今考えるとおおらかで平和な時代だったと思う。


2001年のアメリ同時多発テロのあとはセキュリティが厳しくなり、地味になる一方。
世界はどんどん窮屈になっていく。

 

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仕事を始めてからはお客様もよくお招きし、小さなパーティも開いた。
白のクロスが常識だったので、黒い艶のあるテーブルクロスに新鮮な印象を受けた。 

しかし古い建物を壊し、新しく建設するためにアメリカンクラブは2007年から3年間高輪に移転。

品川にはなんとなく行く気になれなくて足が遠のいてしまったが、2010年にもとの麻布台にリニューアルオープンしてから再び利用している。

一枚目の写真は今の新しいロビーの様子、2枚目の上の写真は建て直す前のバンケットルーム。
このパーティーの時も、生徒さんの作品を会場に展示した。

 

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今の建物は、最上階に明るいインドアのプールがあるので一年中泳ぐことができる。
たくさんのレストランがあるが、昔からおおむね食事は・・・アメリカンな・・・、お味である。
きっとこれが祖国の味なのだろう。

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今年の2月にはパルファンサトリ フレグランス スクールのランチパーティーがあり、ついおとといは知人の結婚式と続いている。

地下の披露宴会場はオープン以来初めて来た。広く天井が高くなかなか素敵。
このエリアはメンバー以外でも利用できるらしい。

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披露宴の前に、ラウンジにて休憩中。


この日はイスラエルの方と日本女性との国際結婚。
ムービーでお二人がたくさんの苦労を乗り越えて結ばれたのを知った。
とても心温まるお式だった。

 

 

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