この藤沢周平の短編集の中、三屋清左衛門残実録・第6話の「梅咲くころ」は、一番好きな話。
江戸時代の東北のある藩で、君主の用人を務めた「三屋清左衛門」が引退した後の物語。
御隠居のゆったりとした生活の中にも、ちょっとした事件が持ち上がり、それを解決していく日常をつづった短編集である。
6話は、清左衛門の若い頃の回想から始まる。
江戸詰勤番の用人時代、やはり江戸藩邸に勤めるお側女中(奥女中)が悪い男にだまされて、自害を企てるが未遂。
心を閉ざした娘を慰め、励ます役を老女(お女中頭)から仰せつかる。
療養中で抜け殻のようになった娘を何度か見舞ううち、出がけに思いついて、御屋敷の梅の枝を折って訪ねる。
座敷に座ったまま、話しかけてもうつろなまま、まったく反応を見せなかった娘は、その匂いが届いた時、ふと顔をあげ、香りを探す目をする。
初めて見せた人間らしい表情に、清左衛門は持っていた梅の枝を差し出した。
手渡された枝を、はじめ梅の香りを少し吸い、やがてしずかに泣きはじめ、しだいに身も世もないようにすすり泣く・・・。
花の香りが娘の心を開く、美しい筆致で描かれた、感動のシーンだ。
その後、侍女はまた生きる希望を取り戻し、仕事に復帰。
それから十数年、清左衛門の隠居後に、江戸藩邸の奥で出世したその娘が、江戸から国元に訪ねて来くる。実は本編の事件はそこから始まるのだが、それはぜひ読んでいただいて・・・。
藤沢氏は長く執筆しておられるので、作品の色合いが違う。
市井の人情味あふれるもの、小さな藩の御家騒動ものや、歴史伝記的なもの、などいろいろあるが、暗く重厚な作品よりも、暖かい、そしてちょっぴり哀しいところのある作品が、この年になると読んでいてしっくりくる。
人間は強いだけ、正しいだけでは一人前とは言えない。(ありえないし。)
弱く、ダメな部分を持っていて、それを自分で知っていること、
それが謙虚さを生み、いっそう人間性を輝かせるのだと思う。
自分のできない部分に気付かない人は、傲慢になり、滅びていく、これは歴史も語っている。
そんなことを、時代物は感じさせてくれる。