仙女(せんにょ)なんて、いまや童話の中にしか存在しない言葉だと思う。
シャルル・ペローはフランスの詩人である。
「シンデレラ」「眠りの森の美女」「あかずきんちゃん」といった、物語の方が名が通っているかもしれない。
彼の著(しる)した「ペロー童話集」は、民間伝承(昔話)をまとめたもので、女の子にはよくなじんだ本ではないだろうか。
グリム童話の中にも同じ物語の名がみられるが、年代的にはぺローの方が古い。
言い伝えを元にしたものだけでなく、オリジナルの韻文(いんぶん)による物語もある。
「ロバの皮」はお姫様が苦労して最後は幸せになるという、よくあるストーリーだが言葉のリズムが心地よい。
水戸黄門の視聴率がいいように、だれだってハッピーエンドは心が休まる。
最後まで読んで、いつ報われるのかと思っているうちに悲惨に終わる「衝撃のラスト!問題作」というのは、この年になるともう辛いばっかりだ。。。
私が好きなこの「仙女たち」という童話はとても短い。
ひねくれて意地悪な姉娘(あねと、いつも虐げられている優しい妹娘(いもうと)が、仙女によってそれぞれの褒美(ほうび)をもらうと言う単純な話だ。
妹娘は辛い水汲みの途中、老婆に頼まれて水を飲ませる。老婆は仙女の仮の姿であるが娘はそれを知らない。
帰りの遅くなったことを母親になじられた娘は、
「実はね、お母さん」と一言話すと、口からダイヤモンドが二つ、真珠が二つ、薔薇の花が2輪とびだしてくる。説明するほどにあとからあとから、宝石が積っていく。
それを見た母親が、自分に似ているという理由で可愛がっている姉娘にも水汲みに行ってくるようにいいつけるのだが、姉がしぶしぶ行くと、今度は別の身なりをした仙女が水を所望する。
娘は「あんたに飲ませる水はない」と言って断り、戻ってきてしまう。
母親の「どうだった?」との尋ねに応えると、娘の口からはマムシやヒキガエルや毒虫が。
やさしい方の妹娘は、怒った母親に追い出されるが幸せをつかみ、ひねくれた姉の方は、家に残るもやがてうとまれ、非業の最期を遂げる。
小さい頃、この話を読んで、教訓的なものを感じるよりも、自分の言葉が薔薇の花に変わったら、どんなに素晴らしいかと胸がぎゅっとなったものである。
善良なものが報われて、悪い心は懲らしめられる。「勧善懲悪」といえばそうだが、
この物語からは、もうひとつの寓意を読み取れる。
傲慢、嫉妬、憎しみなど、悪い心から発せられた言葉は毒を撒き散らすことなのだ。
優しい気持ちの込められた言葉は、何物にも代えがたい宝石として周りを幸せにする。
普通の人たちはみな、心の中に両方の面を持っている。
その時々で、姉にも妹の立場にもなりうると思う。
いつもいつも、謙虚でつつましく、感謝の気持ちを持っていたいと思わずにはいられない。
それでも、自分の中の暴君を諌めるのは難しい。
今日、私の言葉は何輪の薔薇に変わったのだろう?
そして、口からは、いくつ醜い生き物が生まれたのだろうか・・・。