グリム童話の中でも白雪姫、イバラ姫(眠れる森の美女)、灰かぶり(シンデレラ)などは有名だ。
また、3人兄弟のテーマはよく登場するが、このケースはほとんど末っ子が成功する。
ほかにも寓話(擬人化された教訓)であったり、勧善懲悪とか、苦労した末にハッピーエンドといったパターンの物語が多い。
しかし、愚かな人間の日常を描いて最後まで愚かなまま終わる、というような、何を言いたいのかよく分からない、ヘンな話はあまり知られていないだろう。
カーターリースヒェンもそんな話の一つである。
夫が畑に行っている間に食事の支度をする妻のカーターリースヒェンは、ソーセージを焼いているうちに、ビールを用意することを思いつき、地下室に行く。
そうして樽からビールを注いでいる途中で、犬がフライパンのソーセージを食べてしまわないか心配になって急いで見に戻る。
やはりソーセージは持ち去られ、犬を追いかけまわしているうちに樽のビールは全部流れ出し、しかたなく今度はびしょぬれになった地下室を乾かすために、貯蔵してあった大事な小麦粉をすっかり撒いてしまう。
そんなカーターリースヒェンの「うっかり」と「やりっぱなし」と、「物忘れ」の連続で延々と話は続いていき、ついに自分がカーターリースヒェンだったこともわからなくなってしまうのだが、読んでいるとあまりの馬鹿さ加減に腹が立ってくる。そして終盤ははちゃめちゃに飛躍し、唐突に終わる。
ナンセンスだ。いったい、何のためにこんな話・・・。
と思いながら、なかなか寝ない子供のために、枕元で母親が、いつ終わるともなく子守唄のように語っている光景が目に浮かぶ。
しかしあらすじを書いていてふと気がつくと、自分も大なり小なり、似たような失敗をしているんじゃないか?と思い至ったのであった。
段取りは大切だ。思い付きだけで行動してはいけない。教訓はあるもんだ。
はっきりと「こうしましょう」とは書いていないが、よく読んでみれば深い。
ほかにも、虫のよい人間が抜け目なく立ちまわって成功する話とか、子供にはあまり聞かせたくないものもある。まあ、世の中のしょっぱさを聞かせるのも教育のひとつなのだろうか。
夢いっぱいに改変された「ディズニー」に慣れた目から見ると、毒はあるが、どぎつくはない。ハラハラしないので安心して読め、やがて眠くなる。
グリム童話は大人になっても睡眠導入剤のような読み物。