パルファン サトリの香り紀行

調香師が写真でつづる photo essay

吾輩は猫である I Am a Cat "Natsume Soseki"

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低気圧というのは体がだるくなり、眠く、かつおなかがすくようだ。

いつもよりたくさんの食料を買い(なぜか台風の前はつい買いすぎてしまう不思議な心理)、この連休に家で一気に仕事の遅れを取り戻そうと考えていたのであるが、連日の睡眠不足に加え台風の低気圧のせいか眠くてたまらず、今朝はさっぱり起き上がる気になれない。

夜明けごろ風雨が強まった気配である。


いつもより3時間も寝坊して朝食をとった後、どうもだるくてちょっと横になる。
テレビでは台風速報が流れている。
常には見ないテレビも、こんな心せわしい日は意味もなくつけてしまう。

 

先般よりキンドルを持って移動中の車中でポツポツ読んでいるうちに、寺田寅彦先生の書に、夏目漱石氏との交流について書かれている文をみつけた。

寺田寅彦随筆集の「夏目漱石先生の追憶」という中に、「吾輩は猫である」に「水島寒月」という書生で登場していることが書かれていある。そこで久しぶりにこの「・・・猫である」を読んでみようと、これもまたキンドルに入れておいたものである。

ところで、ちょっと横になった時にキンドルは片手で持ちやすい。画面の下が少し広くなって親指で支えやすく、重さもちょうどよい。(依頼されたわけではないが、うまい宣伝文句だ。)

 

横になったついでにそのキンドルを開く。学生のころの課題図書として何度も読んだこの「吾輩は猫である」、こんなときにはよく知っている本のほうが気が張らないでよい。

あってもなくても気が付かないバックグラウンドミュージックのごとくリラックスして読める。10ページほどしたところで眠くなった。いつの間にか眠っていた。

夢の中で小説のつづきを見た。明治の風俗を着た人々が笑いさざめきながら部屋の中に出たり入ったりしている。
つけたままにしたテレビの音が夢の中に入ってきたのかもしれない。

 

目が覚めると同時に夢の細かいディティールはすっかり忘れてしまった。
のどが渇いてキッチンにいきお茶を飲み、おやつを食べたところでまただるくなって横になる。

いったん止んでいた風雨が昼頃に再び強まり始める。

なんとなく続きが楽しみでまた読み始める。思いのほか面白い。こんどは10ページ以上読んだかと思う。眠くなるところをもうちょっとがんばってみたがいつの間にか眠っている。また夢を見る。

起きてはボーっとしながら軽食を取り、また本を読みながら眠って・・・を幾度となく繰り返す。こんな風に祭日を過ごすのはいったいどのくらいぶりだか忘れた。

 

吾輩は猫である」はあまりにも有名だし、よく知っている気になっていたが、数十年ぶりに読んでみると「え、こんな内容だったっけ?」ときれいさっぱり忘れていた。 

100年以上前に書かれているにもかかわらずまったく古臭くなく、非常に新鮮である。
もちろん明治のこととて男尊女卑や差別的表現が随所にあり、古典だから許されることではある。
しかしベーシックに流れている人間社会の悲喜こもごも、は現代と一つも変わっていないように思われる。

全編にあふれるペーソスを交えたユーモア。「太平の逸民」の章は特に面白い。
超俗でありたいと俗骨を軽蔑しながらも、煩悩を捨てきれない「吾輩」のご主人、珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)に共感する。また、次々と出てくる登場人物ひとりひとりが魅力的である。

 

そもそも寺田先生の随筆を読んだだけでもその人柄はよくわかるけれど、

漱石先生お気に入りだったという若き書生の寺田寅彦がモデルとなった「寒月」氏も篤実な人柄で、漱石先生の目から見た寺田像とほぼブレがないように思われる。

固いようで洒脱、そして文学と科学の横断的な発想。そんな弟子を輩出できるというのも漱石先生の大きさあってのことだろう。

中谷宇吉郎「雪」の随筆から入り、その師の寺田寅彦にさかのぼり、さらに「吾輩・・・」を再び読んだ時にその柔軟な思考の系譜が夏目漱石につながっていることを理解できたのである。

 

昼過ぎには雨風はやみ、台風が去ると同時に体の上に載っていた重しが軽くなり、夕方からだんだん体が目覚めてきたようである。

本はまだ半分ほど残っているのでもうちょっと読みたい気もするが、もう休日はおしまい。
しかし明日からのスケジュールを考えると、再び重くなる。

明治の1日は小説と同じくらいのゆっくりのペースで 流れていたのだろう。胃弱にでもなって昼寝を日課とする英語教師、珍野苦沙弥先生がうらやましい気がしてきた。

 

 

 

 

 


 

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