パルファン サトリの香り紀行

調香師大沢さとりが写真でつづる photo essay

3D映像と本読む楽しみ

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さとり「今は大忙しで、本をよんでるひまがないっちゃあないのだが・・・。」
よいち「いい歳してロミジュリですかい?」
さとり「おまえのその言い方が、すでにおやじっぽいよ」
よいち「はあぁ、あのオリビア・ハッセーも、還暦まぢかでやんスからねえ」

 

写真とはあんま関係ないのだが、
最近の3Dブームに物申したい!

 

そもそも、リアルに近付くほど、本物から遠くなると言うのが私の持論で、
咲いている花に限りなく近い造花は、限りなくニセモノだと思っている。

なのに、「本物みたい~」と嬉しがったりする人たちがいるから理解できない。

3D映像のテレビが販売され、ニュースでも取り上げられている。


しかしながら、おばあさんの昔語りから、書物へとなり、映像となり、リアルさを増すほどに、イマジネーションの自由度が奪われていくように思えてならない。

小説で読んだ内容を期待して(期待する方が悪いとも言えるが)映画を見たらがっかりしたという体験は誰でもあると思う。(が、オリビアハッセーは可愛かった)

でも、「がっかりできた」というところに、自分というものを認識できるだけ、まだ救いがあると思うのだ。

たまに、映画館や、アミューズメント施設で3Dを見るくらいなら特別感があるが、日常のテレビまでそれが必要なんだろうか?

 

絵にしても写真にしても、描いたり撮ったりする人は、目に映る光景の、ただの模倣ではなく、自分の心の動きを、写真や絵を媒体にして表現しようとするものだと思う。

また、見るほうはその感動を感じるのであって、どこかの景色に似てるからいい、というものでもなかろう。

 

「あの娘は花だった」という、一言から想像する少女像は、その人の今までの体験の中から描き出す、たった一人の「花のような娘」なのだ。

 

しかし、テレビ画面にリアルな偶像を動かして、万人が同じものを見る、そこに想像力の退化がないだろうか?(テレビと芸術を同列に論じるのもおかしいかも、だけど・・・)

そんなにリアルを求めるんだったら、いっそ脳に電極をつけて直接映像を送り込んだらいい。(そんなストーリーの映画もあったっけ)

 

人は、その疑似体験を真実と勘違いしてしまわないか?
ということを危惧するものである!

 

よいち「さとりさま、いまどきそんな説教は年寄り臭いっすよ」

さとり「うーん、昔は親に、『テレビを見ると頭が悪くなる』って言われたけど、やっぱ見ちゃったもんねえ。」

 

 

 

 

 

 

 

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