今年は92歳という高齢でもあり、この数年で母は茶道具をずいぶん整理してしまった。
私がお茶を始めた12歳のころから、いずれ私が使うだろうと思って買い求めたものが、やがて私はお茶の道には進まないことがわかり、母はずいぶん期待外れであったろう。
流礼(りゅうれい)席、台子(だいす)、風炉(ふろ)、屏風(びょうぶ)、掛け軸や花瓶などなど、何十年も倉庫いっぱいに眠っていたものであるが、これら大小の茶箱を少しだけ残して、お道具屋に処分したのは数年前の引っ越しの折である。
それでも、茶碗や香合、茶入れなど小さなものは残っていて、母は自分のために季節に合わせて楽しんでいる。
上は天神様。1月25日は初天神だ。
押入れの引き出しには季節ごとに茶碗がまとめてあり、「毎朝の一服」のために歳時記にちなんだ茶碗を選ぶ。
高直(こうじき)なものではなく、普段使いの気楽な茶碗ではあるが、誰にみせるでもなく自分のためにそのしつらえを用意するのが、母の楽しみである。
その母の楽しげな様子を、若いころはあまり気にもとめていなかったのだが、この数年、私も母と同じように「毎朝の一服」を喫していると、そのめぐり逢いにしみじみとした喜びを感じるようになった。
「光琳梅(こうりんばい)、槍梅(やりうめ)、桃(もも)、椿(つばき)、すみれ、春の野・・・」
年が明けると、早春の茶碗の引き出しをあける。真田紐で結わえた桐箱の蓋には紙がかけられ、茶碗の名前が書かれている。そして、どこに何があるかの母の見取り図が乗っている。
一年ぶりの文字を読むと「また、今年もこの茶碗と会える」と心が弾む。
「節分の茶碗は2月になってから・・・」と暦を数えて待ち遠しい。
5月には夏の引き出し、8月には秋の引き出しをあけて同じような気持ちになるのだ。
新しいものばかりを次々と買い求める、そんな喜びとは違う。
長い時が積み重なることが愛おしく、そこに少しだけ新しいものも加えていく。
このバランスが、贅沢だと思うこのごろである。
梅もちらほら咲き始めた。近づいてその甘酸っぱい香りを胸いっぱいに吸うと、心がきれいになる。
ふと気がつくと、日暮(ひぐれ)が遅くなってきている。
秋の日の、あっという間にストンと暗くなる頃に比べて、夕方がゆっくりと感じられる。
一番寒い今が、もっとも春に近い。