パルファン サトリの香り紀行

調香師が写真でつづる photo essay

インタビュー「道(どう)」と香水① Tao & my aesthetics of perfumery

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「道(どう)」と香水① Tao & my aesthetics of perfumery

 

私は幼い頃から茶道、華道を学び、香道にも親しみました。また、日本の伝統文化にも触れて育ちました。

 

これらの経験が、私のクリエーションにどのように影響してきたか、「道(どう)」についてちょっぴり考えてみました。

教えられたことや、体験、今まで読んだ本の知識など、乏しいながらも思い出してみたいと思います。

 

 

日本は長い間、鎖国によって世界から孤立してきたことで、独特の精神文化を醸成することができました。

そのことが茶道の発展にも寄与していると思います。

 

お茶はもともと貴重な薬として始まりましたが、やがて喉の渇きをいやす飲み物となりました。さらに精神修養を持ち込んだのが茶道で、それは人生の渇きを潤すものとしての精神的な意味を持つようになりました。

 

 

日本では、茶道、華道、香道、武道、書道、と多くの技芸に「道」がついています。「道」を短い文章で語る事はとても難しいのです。

なぜならば「道」は実践することであって、言葉で知るものではないからです。

私が茶道を習ったときにも、特別に「道」について教えてもらったわけではありません。

作法だけが重要なのではなく、師に手順を習い、その形を繰り返し努める中で、自然と心と技が整っていく、とでも言ったらいいのでしょうか。

 

 

しいていえば「道」というのは人との競争ではなく、過去の自分と比べた成長であり、そのために精進する生き方です。

さらに言えば過去も未来もなく、今現在が大切で、しかしこれは「今さえよければいい」というような、刹那(せつな)主義とは違います。

「結果が重要なのではなくその経過」に、「未完成であるがゆえの成長の可能性」とか、「完璧」にではなく、「完璧を追求する過程」に価値を見出すことが「道」ではないかと思います。

 

不完全、といえば、茶碗にとって最も必要なことは、装飾ではなく「空っぽである」ことです。茶を入れる空間がなくては役に立ちません。

同様に、人が真にくつろげる場所を見つけられるのは余白です。

香りだけで完成するのではなく、そこにつける人の居場所がある。

香りと人と場所と生き方と一体となって、完成を「目指す」というのが私の理想の香りです。

 

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千利休とその息子、少庵との有名な逸話があります。

 

ある日、庭の掃除をしていた息子は利休になんどもやり直しを命じられます。

息子がうんざりして「もう清めるところはない」と言ったところ、利休は「未熟者め!」と叱って木を揺さぶり、紅葉(こうよう)を景色に散らしてみせたといいます。

 

この話はお茶のお稽古の時か何かで聞いて、私の記憶に残っていたのでしょう。

ある海外での展示会で、私は花を活けました。広い会場の一角には、日本の秋の雰囲気を出すために、もみじだけを大きな壺に飾り、床に赤や黄色の落ち葉を散らしました。

 

しかしほかの場所を活け終わって戻ってくると、ホテルマンが気を利かせて葉をきれいに掃き清めてしまっています。

「ダメダメ!かたづけちゃ~!」と言いながら、再度落ち葉をまき散らしたのを思い出します。

 

 

香りを作ることは、自分の内面を掘り下げていく作業だと思うことはあります。

したがって、これは外を意識して計画的に作られるというよりは、私自身がそのまま作品に投影されていくのではと考えます。

そのためにも自分自身を磨いていきたいし、その気持ちが、私の「道」なのではと思うこの頃です。

 

(この記事は過去のプレス・インタビューから、回答を編集して掲載しています。)
 

 

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