牧野富太郎博士は、たくさんの植物随筆を書いておられる。
若い頃、その牧野博士の随筆を何冊か読んだ記憶がある。
最近また読み返したり、新たに購入した本を読んでみた。
でも、先生がこんな風にアグレッシブな方だという印象はなかった。
巷間言われる花の通称、名前の誤りを遠慮なく指摘している。
たとえばアジサイを紫陽花と書くのは間違いであるとは知らなかった。
既存の概念にとらわれることなく、権威におもねることなく持論を展開される。
批判もちょっとくだけた話し方がとても 痛快だ。
それなのに、やっぱり俗称の方が通りがよいのか、センセイの指摘した間違いは
今でもあまり直されていないようだ。
牧野博士は、1862年に生まれ、94歳で亡くなるまで生涯を研究に捧げた稀有な方である。
小学校を中退し独学で研究を続け、植物分類学者となられる。
理学博士には65歳で、研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行したのは78歳。
遅咲きの、と言ったら失礼だが、人が偉業をなすにはこんなにも時間がかかるものなのかと、改めて思う。
でも、博士はとっても楽しそうに書いている。
ものすごーく、植物を愛していらしたんだなって、思う。
それは、植物に興味を持つことによる「3つの徳」について述べられた言葉からもわかる。
「第一に、人間の本性が良くなる。の煮山に我らの周囲に咲き誇る草花を見れば、何人もあの優しい自然の美に打たれて、和やかな心にならぬものはあるまい。氷が春風に溶けるごとくに、怒りもさっそうに解けるだろう。また合わせて心が詩的にもなり美的にもなる。」
「第二に、健康になる。植物に興味を持って山野に草や木をさがし求むれば、自然に戸外の運動が足るようになる。ー中略ー 」
「第三に、人生に寂寞(じゃくまく)を感じない。もしも世界中の人間がわれに背くとも、あえて悲観するには及ばぬ。わが周囲にあるく先は永遠の恋人としてわれに優しく笑みかけるのであろう。」
「推(おも)うに、私はようこそうまれつき植物に愛を持ってきたものだと、またと得難いその幸福を天に感謝している次第である。」
本当に、かたくなな心もほどける森の効能。
もし、こんなに自然を愛することができれば、どんなに幸せに暮らせるだろう。
そして、自然が傷つくことがどれほど悲しいことか。
博士が生きた時代が、まだ美しい里山を残していたことは、植物分類学にとっての天恵だろうと思うばかりである。