パルファン サトリの香り紀行

調香師が写真でつづる photo essay

中原の虹 浅田次郎(完結)

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中原の虹(浅田次郎)をこの週末で読んでしまった。

 

文句なく面白かった。

  

たくさんの魅力的な登場人物が出てくるが、表の主人公が馬族の親分「張作霖(チャンヅオリン)」としたら、もう一人の主人公は敵役でもある「袁世凱(ユアンシイカイ)」ではないかと思う。

この本は「蒼穹の昴」の続編で、前作から引き続いての登場人物も多い。軍閥のキーマン「袁世凱」は、憎らしいほど厚顔で、しぶとく乱世を生き抜く、悪漢であ った。

しかし、敵役は敵役ながら、この小説「中原の虹」の中では彼の人間臭さや弱さ、脆さもふんだんに描かれている。

スーパーヒーローである張作霖に比べ、袁世凱はあいかわらずのずうずうしさを発揮しながらも、これこそ人間の持ち合わせる欠点の博物館のようで、別の魅力がある。さすがピカレスク小説の名作を書いた浅田氏ならではのキャラクターである。

 

氏の小説は大胆でストーリーが巧み、シリアスでありながらエンターテイメントにあふれている。一方、美しい表現が随所に見られ、三島由紀夫氏を尊敬していることもうかがえる。平成の泣かせ屋も堪能した。

しかし、泣ける話と泣かせる話はちょっと違う。

一昔前、よく読んだものだったが、いささかやりすぎの感もあったりして、こんなところに気持ちが離れた原因があったのかも・・・そんな風に感じた。

 

さて、4巻も終わりに近づいて、あと数十ページでどうやって終わるのかと思いつつページを繰ったところ、やはりこの続編もありそうな結末。
と思ったらすでに、「マンチュリアン・リポート」という続編とも言える本が9月に書き下ろされていた。

読みたい。

歴史物なのだから、エンドレスに続くと言えば続くのだろうけれど・・・。読みたいな。

 

歴史小説がなぜ面白いのか、この小説の一節を読んで腑に落ちるところがあった。

高官の位を捨てて市井に隠遁し、清朝の歴史を綴ろうとする老人の言葉である。

「よいかね、潔珊(ジェシャン)、生きとし生くる者みなすべて、歴史を知らねばならぬ。なるべく正しく、なるべく深く。何となれば、いついかなる時代に生くるものも、みな歴史上の一人にちがいないからである。では、いったい何ゆえ歴史を知らねばならぬのか。おのれの歴史的な座標を常に認識する必要があるからである。おのれがいったいどのような経緯をたどって、ここにかくあるのか。・・・後略」(中原の虹ー第4巻、2007年,272P)

このあとは、今の幸・不幸を自分ひとりのものとして考えてはならないという意味の言葉に続く。大変含蓄がある。

 

私は、今、起きていることを横軸、未来と過去を縦軸として、自分自身の立つ位置がどこにあるのかを知りたいのかもしれない。

また、自分につながる歴史だけでなく、ある個人の一生、、どこかの会社、社会や国の歴史など、大小長短さまざまでありながら、あらゆる歴史のどこかに相似形があり、それを重ね合わせることによって、自分の生涯を俯瞰してみたいと思う。
上の言葉からそこまで思うのは
、拡大解釈だろうか。

 

歴史物で、宮城谷氏は端整である。北方謙三氏は、短い文章が読みにくく、慣れるのに少し時間がかかった。司馬遼太郎氏は本当にあったことのように思わせる。

フィクションとはいえ、等しく歴史を舞台に書くからこそ作者の個性がみえて、面白いと思う。

(作る側から言わせれば「勝手なこといってらあ」というところだ・・・)

 

 

中学生の時、檀一雄の「夕日と拳銃」を読んだことを思い出した。(檀一雄氏は女優の壇ふみさんの父君)

「日本人の主人公が馬族となって満州で活躍する」という以外の内容は忘れてしまった。
ただ、大陸のスケールの大きさを感じたことを覚えている。これは、歴史小説だったのか、時代小説だったのか?

 

叔母の家に泊まった夜、叔父の本棚にはそれしか読めるものがなくて、しかたなく取り上げた本だったが、時代的にも、主人公はどうもこの張作霖とも関係があったようだ。

ぼんやりとした記憶では、本の装丁はシルエットになった馬族が赤と黒で描かれていたと思う。
絶版になっているらしいが、また探して読んでみたくなった。

 

 

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