パルファン サトリの香り紀行

調香師が写真でつづる photo essay

「大沢さとりの休日読書」少女パレアナ

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 「少女パレアナ」は児童書である。
半蔵門に小さな本屋さんがある。ある古い小説を探すために寄ったのだけれど見つけられなくて、所在なく眺めていたら代わりに懐かしい本を見つけた。

 

少女パレアナ」を、私は主人公と同じ、11歳くらいの時に読んだ。
昔の女の子は夏休みに読んだことがあるだろう。

きっと、学校で薦められたのかもしれない。
辛い状況を魔法のように喜びに変えてしまう少女の物語を、夢中になって読んだのを覚えている。

 
つい買ってしまった。
再び引き込まれるようにすらすらと1時間ほどで読んでしまった。しかも最初から最後まで感動で泣きながら。
子供のころは、こんなに泣かなかったんじゃないかと思う。

 

このお話のキーはお父さんが考え出した「幸せを見つける」遊びにある。

貧しい家に生まれたパレアナは、プレゼントなんか買ってもらえない。
そんな家には教会が子供たちに贈り物をくれるという。
パレアナは「人形がほしい」と願ったのに、その代わりに松葉杖が送られてきたことに大泣きしてしまう。((だれだってがっかりする・・・。)
 
そこでお父さんが言ったのは「つえを使わなくて済むなんて、嬉しいことだ」
こうして彼女の「喜びを見つけるゲーム」が始まった。

 

父親が亡くなって、遠い親せきに引き取られてからも、「喜ぶことのほうを考えると、嫌なほうは忘れてしまうのよ!」
そういってこのゲームに熱中する少女は常に明るく前向きだ。
周りの大人たちの冷えた心もつられるように和らいでいく。



時にパレアナは義務のことばかりや、「有益なことをするよう」とに言う頑迷な叔母に意見する。
「生きてるってことは、自分の好きなことをするのが生きることです。呼吸してるだけじゃ生きてることになりません」



小説の終りには、彼女を打ちのめすとても悲しい出来事があるのだが、いつもパレアナに励まされている大人たちから逆に、励ましの言葉が次々と贈られる。
「物事というものは、見かけの半分も悪くはないものだ」「どんなことにも、それより辛いことが必ずあるはず」・・・「だから喜べることもきっと見つけられる。」
 

 

こんな風に思えたら、生きていくことがどんなに軽やかに思えるだろう。恵まれた環境でも不幸な人ってたくさんいる。

 

 

分別のある大人が読んだら、本当に甘い児童文学にすぎないかもしれない。
どう見たって悲惨な身の上で、ちっぽけな幸せをありがたがるなんて、世間知らずのお人好しを描いた絵物語と思うかもしれない。

 

でも、美しいものが、子どもの目から見ても、年をとってからも等しく美しいように、名作は常に輝いている。
児童文学と侮ってはいけない。子供だから、真理を知っていることだってある。



何十年の間にたくさん本を読んだけれど、本というものは読むべき時期に、引き合うような出会いがあって読むものだと思う。それは人生の中で1回きりのこともあるし、何十年もたって再び出会うこともある。

 

昔に感じなかった、理解の及ばなかった文章がその世代世代で違う深度の心に沁みてくる。
それでも、やっぱり自分が当時の少年少女だった頃と、本質的にはさほど変わっていないことを再確認する。

 

 

書店にある何万冊もの本の中からその一冊を手に取り、そしてページを開き、その中に心が震える言葉を見つけたとき。
かわるがわる、誰かが私にメッセージを届けてくれているような気がするのだ。
 
 
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