なぜ私は植物が好きなのだろう?
庭を作るのは時間がかかるものだ。
それは作り手にとって手間がかかるという意味ではなく、庭自体が成長する時間が必要ということで、それは植物が育つとか、馴染むとか、植物同士が折り合いをつけていくという意味が含まれる。
山も、森も。
一つの作品ができていくプロセスも、プロジェクトが実るのも、会社が成長していくのも、すべて庭を作るのと同じ。
時が必要だ。
少なくとも私はそう考える。
それだけ待てるかどうか、それは作り手の選ぶことだけれども。
植物の博愛主義的なところは、少しくらい食べられたっていい、というところだ。
葉の一枚や二枚、齧られたところでどうということはない。
種子を拡散するためには、むしろ魅力的な果実を提供し、積極的に食べさせることもある。
腕の端っこをかじられても平気という動物がいるだろうか?
鳥も動物も、簒奪者(さんだつしゃ)から逃げることができる、でも花は手折られるまま抗うすべを知らない。
だからといって蹂躙(じゅうりん)されてもいいの?
いいえ今日明日、得をすれば良いというあさましい考えではなく、長い植物時間によって、彼らはちゃんと理非と利害を測っているのだ。
それに、不当に食べ過ぎる輩(やから)に対しては、体に苦い物質を作り出し、遠くへ追いやることもできるし?
植物は何も言わない。
だから何も知らない、と思うのは間違いである。
あるひ繁みの陰でひそやかに語られた不実は、さやさやという風に乗って、いつしか周辺に知られているものなのだ。
それゆえ植物と共に生きるなら、できるだけフェアでなければ。
それが、長くいのちをつなぐ植物の知恵と理念。