茶道で「朝茶(あさちゃ)」、といえば朝のお茶事のこと。
また、「朝茶は二杯」というように、朝のお茶は1杯ではなく、2杯飲むものということわざがあるが、こちらは煎茶のことのようだ。
ここでは「朝に抹茶を飲む」という意味で、「朝茶」ということばを使ってみた。
以前にも書いたように、母が毎朝、自分のためにお茶をたて始めたのは40代のころで、もう続けて50年になる。
大正の人なので、女学校の正課には茶道があったから、お茶を学んでからは70年以上だろう。
母が朝の日課にしているのは、続きお薄(おうす)といって、濃茶(こいちゃ)の後に続けてお薄を点(た)てる手前なのだが、自分で二服(二杯)飲むので、少なめのお薄にして2回飲む。
私はこの日、いつもより少し遅く家を出たので、母の朝のお茶に居合わせることができ、一つ横から頂くことにした。
小さなお菓子をぱくっと食べて、お薄を頂く。
母のお薄は、濃茶用の抹茶を使っているので、味と香りに深みがあってすごく美味しい。
しかし、私が割り込んだために、話しかけられたり、普段とは道具の位置が変わってしまったので、途中で母の手が止まってしまった。
「あ、蓋置にコレを置くのを忘れていたから、ここがうまくいかなくなっちゃったんだわ。ひとつ手順を間違えると、先へ進まなくなってしまう。お茶のお手前(てまえ)とは、本当によく考えられている」
確かに、私もいつも思うのは、茶道とは、お道具の位置から手順から、究極の効率化が計られているので、お点前さえ体で覚えてしまえば、段取りのわずらわしさから解放され、心からお茶の滋味を楽しむことができる。
ただ、お道具の種類や、季節やさまざまな要因によって、覚えきれないくらいの決まり事やたくさんのお点前があるので、すべてを覚えこむのは難しいのだが・・・。
せめて母のように、基本のお点前がきれいにできて、お茶を頂く所作が美しくできるようにありたい、と願う。
もう握力が弱くなっているのか、茶せんを振るのがゆるいので、お抹茶の泡はあまり立たない。
母の年齢を感じて少し寂しい気がするが、本人はそういう感傷はみじんも感じさせず、溌剌(はつらつ)と一日を楽しもうとしているのが何より励まされる。
口で言われるより、日々の積み重ねを見ることが、心に深く沁みていくのだった。