91歳の母が裁縫をしながら、何とはなしに話題が戦争中のことになったので、忘れないように書き留めておく気持ちになった。
母は昭和19年に薬専(現在の薬科大学)に入学した。
「20年、3月10日の東京大空襲のときは、東京目黒の五本木の学生寮にいた。東の空が真っ赤になって、深夜だというのに新聞が読めるくらいの明るさだった。大空襲は始まりであって、そのあと、まだ落としていない場所も順ぐりに襲われた。」
ある日、母は寮の近くの青山師範学校の駅から、三軒茶屋の叔父の家まで歩いて行った。今では家も立ち並び、まっすぐは行かれないが、当時は野原しかなく直線で行けたそうである。人っ子ひとりいないところを、女が独り歩きするのは物騒なはずだ。しかし「そのころは男の人は(戦争に行ってしまって)あたりにいないので、そういう心配は全くなかった」と語る言葉に現実感がある。
3月の終わりに春休みで地方の実家に帰り、『卒業できなくてもいい』と思って、そのまま4月になっても学校には戻らなかったところ、その後の5月の空襲で、東京の寄宿も校舎も燃えてしまった。
30年前に亡くなった父もまた、そのころ学生であった。学徒動員で東京から九十九里に配属され「本土決戦の折には、海上のアメリカ軍の空母から戦車が浜に乗り入れてくるから、砂浜に穴を掘って爆弾を抱えて待ち、戦車がやってきたらその下に潜って爆死せよ」という命令だったそうである。
二人ともめったにその話はしない。父から聞いたのは一度きり。
言葉少なにもかかわらず、地名や固有名詞だけは妙にはっきりして、現実味をもって心に残っている。