若い頃はきちんとお稽古をして、お茶のお手前をしたけれど、今はもうそのように改まったものでなくて、ただ日常のものとして、朝茶を点てて飲むだけである。
それでも、日々味が違うのが面白いなあと思う。
一口飲んだときに、「ああ、美味しい!」と心から満足するときは多くなく、ぬるかったリ薄かったリ、時にはすごく不味(まず)く感じることもある。
それは抹茶の量とお湯の量のバランスや、温度などによるのだけれど、さらに季節や、茶碗の形と厚さも重要なファクターになっている。
柄杓(ひしゃく)を使えばお湯の量はきちんと測れるけれども、慌てて鉄瓶から注げば、熱すぎたり、茶碗の形によってお湯の量がわかりにくい。塩梅(あんばい)が変わってくる。
そんなことは当たり前のことで、この年でそんなこと言ってるのもちょっと恥ずかしいけれども、やっぱり自分で「しまった!」と思いつつ、感じることが大事だと思う。
大切なのは、心のかたちというか、バタバタ焦っているとやっぱり上手に点てられない。
朝はなんといっても慌ただしい。
それに、雨が降れば思いついて茶碗を替えたり、歳時記に合わせてみたり、箱から出したり片付けたりなどしていると、あっという間に時間が無くなってしまう。
健康のためと、朝の一時を心静かに、とかなんとか思って始めたのに、歳時記と茶碗や菓子との取り合わせの工夫に始まり、写真を撮ることがだんだん主になってきて、かえって忙しくなってしまった。
お菓子を並べるタイミングが早すぎて、準備しているうちに乾いてきてしまったりとか。
本来は段取りこそがお茶の肝要なところなのであるし、お手前のひとつひとつにきちんとした意味があるのは重々承知。
それでも、やらないよりやったほうがいいと思って、毎朝の一服を喫している。
いずれ隠居(いんきょ)などしたら、母のようにきちんと毎朝お手前をしたいものである。
(無理無理)
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